組み体操は危険? 見直しに賛否
様々な立場があり、価値観があり、ご意見があるのは重々承知と受け止めたうえで。私なりの見解を述べたい。なお私の見解を他人様に強制するつもりはないので軽くお聞き流しください。
私個人の好みを言うなら「組体操や騎馬戦、棒倒しや柔道剣道の稽古くらいでおたおたいうな!」・・・と言いたいところだが。
これでは単なる好みの表明であり、論理的な意見とは言い難い(笑)。
まあ、表題が私のとりあえずの結論である。
「程度の問題」「線引きをどこでするのか?」
これに尽きる。
「危ないから」「ケガするかもしれないから」と言う理由は至極ごもっとも。とはいえ、それを突き詰めると何もせずに家に閉じこもるしかない(それすら許されないかも)。
じゃあ「体を鍛えるためならどんなに危険なことをやらせてもいいのか?」というとそれもおかしい。
両方極論にすればおかしくなるのは当たり前だ。
では線引きはどこでするのか? 「当事者の合意」であるべきだと考える。 この問題の一番の当事者は生徒だ。生徒を置き去りにして周囲だけが議論をして決めてしまうとしたら、とりあえずおかしい。
学校が演目の候補を出して、生徒たちにどのレベルを目指すのか決めさせる(やらないのか3段ピラミッドなのか5段ピラミッドなのか)。先生や保護者はそのバックアップを行う。民主主義の組織ならばそのくらいが妥当な落としどころではないのか?
「結果の平等」よりは「機会の平等」こそ学校で教えるべきことだ。「結果の平等」を理想に掲げた「共産主義」の実験では既に失敗の結論が出ている。「お手てつないで同時にゴールイン」の徒競走に意味はない。ただスタートラインに並ぶところまでは許すべきだろうが。
現実社会で大半がリスクを背負って競争している以上、学校と言う教育現場でもある程度はそういう「リスクを背負った競争」を教えるべきだろう。リ スクを背負って何かを成し遂げる。失敗の責任を学校に100%求めるのではなく、半分くらいは自分で背負う。そうじゃなけりゃ謝罪と賠償ばかり要求する寄 生虫、クレーマーばかりの住みにくい社会になってしまうんじゃなかろうか。
<< ホーム